【親子インタビュー】水上バイクレーサーからお坊さんになった父と、米国の名門大学を休学して水上バイクレーサーになった息子の物語|PWC×FAMILY|長松家

親子で同じ趣味を持つことに、憧れを抱くひとは少なくありません。

コミュニケーションのきっかけになったり、子どもが大きくなっても一緒の時間を過ごせたり、趣味が潤滑油となって関係が上手くいくこともきっとあるでしょう。

近年は水上バイクでも、子どもが免許を取得して親と一緒に楽しむケースが増えています。

ここでは水上バイクが繋ぐ様々な親子の物語を、少しだけ紐解いていきましょう。


異色の経歴を持つ長松親子

インタビューに応えてくれた長松清潤さん(左)と長松アレックス一博さん(右)

HWSM 清潤さんのご職業は?

清潤(父) 横浜にある妙深寺というお寺の住職をしております。坊主です(笑)。

HWSM ラジオパーソナリティとしてもご活躍されていますね?

清潤(父) FMヨコハマで毎週水曜日の朝5時半から放送している『YOKOHAMA LAGOON』という番組のパーソナリティもやらせてもらっています。

HWSM どのような内容の番組ですか?

清潤(父) 心と体の免疫力アップというのをテーマに、心が元気ない方に向けてお坊さんとして励みになるような話しができればということでやっています。

HWSM 番組ホームページに書かれていた空飛ぶお坊さんとは?

清潤(父) 今は世界中で仏教がすごい求められていて、お寺も各国にあるので、世界各国で教えを説かせてもらっています。

HWSM プロフィール欄の特技に「3分ジェットスキー」とありましたが。

清潤(父) 実は水上バイクの雑誌の取材を受けるのも32年ぶりなんですけど、昔はそれこそ息子のようにジェットスポーツ中心の人生を送っていて、大学生のころはプロとしてレースに出場していました。ただプロだったのは大学生のあいだだけで、卒業と同時に引退するということでインタビューを受けたんですけど、「僕は本山に入ってお坊さんの修行をします。みんなも海ばっかり行ってないでたまには寺に来なさい。じゃーねー」みたいなふざけたことを言い残してレースをヤメて(笑)。それから30年ぐらいは水上バイクにほぼ乗らない生活をしていたんですけど、50歳を過ぎて久しぶりに乗ってみたら、3分だけは昔と同じように乗れたんです。ただしそれ以上は全力では乗れないので、これでは3分ジェットスキーだなと。

往年の走りを”3分間だけ”披露してくれた清潤さん

HWSM 30年間の空白があったわけですね。

清潤(父) 正確には本山に入って何年か修行をしたあとに、社会勉強ということで一度世の中に出たんです。そこで水上バイクにも携わることがあったんですけど、最初は仕事がまったくなくて。それもそのはずで、僕が大学時代にやってきたことはジェットスポーツだけでしたから。仕方ないので僕の水上バイクの師匠である前田一龍さんを頼って、横浜のオフィスの一角を間借りしてゼロから仕事をスタートしました。

HWSM 最初はどのような仕事をされていたのですか?

清潤(父) 21歳のころに水上バイクを通じて岩城滉一さんと知り合っていたので、みなとみらいのランドマークタワーに「岩城滉一のアクションスポーツカフェ」を作ろうと思って三菱地所にプレゼンに行ったけど、もちろんダメで(笑)。ホームページの制作知識が少しあったので、しばらくはウェイクボード協会とかスケートボード協会にいた昔の仲間からホームページ制作のお仕事をもらっていました。

HWSM その後、映像業界のプロデュース業にも携わるように?

清潤(父) タレントのヒロミさんが波照間島で水上バイクとスカイダイビングをするフジテレビの番組に携わらせてもらって、それがきっかけで映像業界のお仕事が広がりました。そこから民放の仕事も増えて、スポーツ・アイESPN(現在のJ SPORTS)でもスケートボードやBMXといったエクストリーム系スポーツの総合競技「Xゲーム」や「X-Sports」の番組プロデューサーをしたり、テレビ朝日の番組で前田さんとヒロミさん、それから伝説的な元世界チャンピオンのラリー・リッペンクローガーと一緒にアメリカのミシシッピ川を水上バイクで縦断したり。そんな感じで数年の社会勉強を終えてからもう一度妙深寺に戻り、それから20年以上は水上バイクと疎遠になってしまいましたね。

約6000kmの道のりを同行した清潤さん

HWSM それが最近復活してヴィンテージマシンに乗られているとか。

清潤(父) 今乗っているのは550なんですけど、あの時代のジェットスキーは本当に不安定なので、お爺ちゃんにもってこいだなと。

HWSM その理由は?

清潤(父) ものすごい体幹運動だし、転んでもケガしないし。コーナリングにしてもスロットルワークにしても瞬間的な判断力も鍛えられるから、年を取ってから始めるべきスポーツだよねって。ちょうど僕と同じ世代の30年前に乗っていたひとたちが、次々にヴィンテージマシンを買ってカムバックしていますよ。

ふたりが乗るのは清潤さんの現役時代から活躍するJS 550

HWSM アレックス選手もヴィンテージマシンに乗っていますが、まずはパーソナルな部分を教えてください。今は学生ですか?

アレックス(子) 大学3年生です。アラブ首長国連邦にあるニューヨーク大学アブダビ校というところに在学していて、主に経済と数学を勉強しています。

HWSM お父さんが水上バイクのレースに出ていたことは小さいころから知っていた?

アレックス(子) 見たことはなかったですけど、家にトロフィーがたくさんありまして。それを見て育ったのでなんとなくは知っていました。

HWSM 水上バイクがどういうモノか知っていた?

アレックス(子) トロフィーの上に水上バイクの人形みたいなモノが付いていたので、こういう形のノリモノに乗ってるんだろうなっていうのはなんとなく知っていました。ただ父が水上バイクに乗っている姿は自分が乗り始めるまでに1~2回しか見たことがなかったです。

清潤(父) お坊さんの僕しかほとんど知らないと思います。

HWSM では幼少期に水上バイクに乗ってみたいとか、レースに出てみたいと思うこともなかったと。

アレックス(子) 小さいころの夢で「ジェットスポーツのプロになる」みたいなことを言っていた記憶があるので、なんとなくやってみたいとは思っていたんだと思います。

HWSM それから月日が流れ、大学生になってから水上バイクに乗り始めたのは何か理由が?

アレックス(子) 2023年は大学を1年間休学して550でレースに出ていたんですけど、休学した理由はレースに出るためではなくて、インターンで働くためだったんです。それが直前で取り消しになってしまって。もう休学しちゃったし、これから1年間どうしようってしばらく呆然としていたんですけど、なぜかそこで「そうだ、水上バイクのレースをやってみよう」と思って。

HWSM なぜ水上バイクのレース?

アレックス(子) これまでの人生でスポーツに真剣に取り組んだことがなくて、勝ち負けの世界で勝負してきた人間と僕みたいに勉強ばかりしてきた人間では、持っているモノとか考え方も違うんじゃないかと思って。それと僕が行っている大学は世界中から優秀な人材が集まっていて、僕も高校までは勉強だけで勝負できたんですけど、大学ではそれだけじゃ太刀打ちできなくて。他のひとと差別化できることってなんだろうって考えたときに、水上バイクのレースが浮かんできました。

HWSM それはお父さんの影響でしょうか?

アレックス(子) 間違いなくそうだと思います。それにこれから僕がサッカーをはじめて、バルセロナに入団しますって言っても明らかにムリじゃないですか(笑)。1年で結果を残すのはどのスポーツでも難しいことだと思うんですけど、父がやっていたことや前田さんとかの繋がりからサポートしてもらえることもあって、水上バイクのレースがもっとも可能性があるんじゃないかと思いました。

HWSM それを聞いて清潤さんはどう思いましたか?

清潤(父) 内心はものすごくうれしかったですよ。水上バイクっていうのは僕の人生を作ってくれた特別なものなので、きっと息子もそこから何か学んでくれるんじゃないかと思っていました。水上バイクのレースはただの遊びじゃないと思っていて、準備や片付けの段取りだったり、人を思いやる心だったり、人とのコミュニケーションだったり、社会生活で役立つことがすべて詰まっていると言ってもいいぐらいなので。仏教で教えられない部分は水上バイクが教えてくれますから(笑)。もちろんスポーツとしての楽しさや厳しさ、挑戦することの難しさ、挫折や成功など、様々なこともあります。それは学校の教室では絶対に経験できないことですからね。だから私が現役当時にお世話になっていた前田さんに相談させてもらい、それならとヴィンテージレースの火付け役だった村尾高明さんを紹介してもらって息子を送り込みました。

HWSM お父さん以外からは水上バイクのレースを始めることについて何か言われましたか?

アレックス(子) 高校時代は京都に住んでいて、そのときお世話になっていた自転車屋さんに父と同じ元パーソンズのプロライダーだった石橋馨さんというひとがいるんですけど、数年ぶりに会ってレースを始めることを話したんです。実は高校時代にも一度水上バイクのレースに出たいと思っていた時期があって、それを石橋さんに相談したときは反対されたんですよ。どうやら「そのときは勉強を頑張るべきだと思って」ということだったみたいで、今回は「やるなら思い切りやったほうがいい」とすごい応援してくれて。スロットルワークの練習用に人差し指を鍛えられるめちゃくちゃ硬いスロットルレバー付きのハンドルなんかも作ってくれて(笑)。

HWSM 村尾さんのところでは練習漬けの生活を?

アレックス(子) ディーゼルのマニュアルのハイエースを5万円で譲っていただいて、そこで寝泊まりしながら泊まり込みで練習させてもらいました。毎日レースのことだけを考えて、レースに勝つための生活を送っていましたね。その一環で「ジェットスキーノート」というのを書いていて、先輩方に教えてもらったことや練習で感じたこと、セッティングのこと、エンジンのチューニングのこととか、次の練習で見て復習できるように書いていました。

HWSM 清潤さんもプロとしてレースに出場されていましたが、水上バイクに乗り始めたのはいつごろですか?

清潤(父) 1987年だと思います。18歳でしたね。

HWSM きっかけは?

清潤(父) 大学受験でお坊さんの大学だったらストレートでいけたんですけど、僕の父から「学生のあいだは挑戦すべきだ」と言われていたので、イチから受験勉強することになって。そこで当時夢中になっていたサーフィンをヤメたんです。その後、無事に受験も終わって大学に入学したんですけど、もう一度何かスポーツがやりたくて。やっぱり海からは離れたくないな、と思っていたところに友人が『JET ON』という水上バイクの雑誌を持ってきまして。その表紙が550だったんですけど、エッジが1cmぐらいしか残っていないぐらい船体を傾けてターンしている写真で。ライダーはラリー・リッペンクローガーだったんですけど、「こんな水上のノリモノ他にある!?」とみんなで食いついて。

2024年6月に清潤さんがロサンゼルスを訪れた際、ラリーがわざわざアリゾナから足を運んでくれたことで約20年ぶりの再会が実現しました

HWSM その後すぐに購入したのですか?

清潤(父) 当時の僕たちにはもちろん高価な物だったので、12人でなんとか2台購入しました。友だちのお父さんにお金を出してもらって、月賦で返しながら乗っていましたね。そこから「こんなに面倒くさくて面白いノリモノは他にない」とすっかり水上バイクにのめり込みました。まるで筋斗雲じゃないかと。自由自在に波を飛んで、水の上を行きたい方へ行ける。止まろうと思えば止まるし、曲がろうと思えば曲がれる。思うままに走れる楽しさに魅了されて、気づけば「頂点に立ちたい」という思いが芽生えてレースにも出るようになっていました。

1989年にはクローズドレースで全日本チャンピオンになり、フリースタイルでもアマチュアチャンピオンになった清潤さん

HWSM その後は学生ながらプロとして活躍されたそうですね。

清潤(父) パーソンズというファッションブランドの会社が水上バイクのレースチームを持っていて、そこの専属ライダーでプロとして走っていました。専属メカニックとして石崎パパ(故・石崎浩氏|水上バイクフィッシングの第一人者)にもお世話になりましたね。

清潤さんが所属していたパーソンズ・レー シングチーム

HWSM そうしてプロとして活躍するのと同時に、「全日本ジェットスキー学生連盟」というものを起ち上げたそうですね。

清潤(父) 水上バイクを若いひとに普及したかったのと、自分が波乗り出身ということもあり安全に十分配慮して乗らないと他のマリンスポーツに迷惑がかかると思っていたので、安全啓蒙も兼ねて団体を起ち上げました。他の大学にも声を掛けて、それなりの規模で一緒に乗ったり遊んだりしていましたよ。あとはJJSBAからも公認を受けて、JJSUA(Japan Jet Sports University Association)というレース団体も発足したんですけど、いかんせん僕がすぐに卒業してしまったのでその後はどうなったか知りません(笑)。

HWSM そして大学卒業と同時にレースも引退したと。

清潤(父) 1992年の3月で引退しました。日本で開催されたワールドカップにも2回ほど参加できたり、楽しい現役生活でしたよ。当時、絶対的なチャンピオンだった金森稔選手のアパートに泊めてもらって色々イタズラしたのも良い思い出です(笑)。あとは『彼女が水着に着替えたら』という映画にラリーと前田さんが出ていて、僕も下っ端の雑用としてお手伝いさせてもらったり、Vシネマに出演させてもらったのも良い思い出です。

HWSM その後は冒頭でもお話しがあったように、本山に入られてお坊さんの修行をされたと。

清潤(父) いよいよ本山に入ろうかという直前に、岩城さんと前田さんから「お前は本山に入って修行しろよ。俺たちはジェットスキーを楽しむから。じゃーねー、バイバイ」という留守番電話が入っていて、ああ、僕の水上バイク人生は本当に終わりなんだなと実感して。そこでひと区切りついて、修行の身となりました。

HWSM それから数十年の時を経て、アレックス選手がレースデビューしました。初戦は2023年のJJSA猪苗代大会でしたね。

アレックス(子) そのときは乗り方を忘れるぐらい緊張していて。まだ転ばずに乗れるかどうかぐらいのレベルだったので、とにかく予選だけは通過したい一心だったんですけど、第一ブイでいきなり接触してそのまま最下位で終わってしまって。敗者復活でなんとか決勝には進めたんですけど、最終的には6位でした。

HWSM もっとも印象に残っているレースは?

アレックス(子) 猪苗代大会の次のJJSA千里浜大会ですね。氏家光葉くんっていうレーサーと仲良くさせてもらってるんですけど、レースの序盤で氏家くんはテザーコードが抜けてしまって下位に沈んでいて、僕は3位とかだったんですよ。でもそのあとすぐに氏家くんに抜き返されて、焦ってスロットルを握ったらミスしてしまい最終的には8位まで順位を落としてしまって。それがあまりにも悔しくてレース後にひとりで隠れて号泣したんですけど、それがより真剣に練習するようになったきっかけにもなりました。

HWSM それ以降はどのような練習を?

アレックス(子) 550とかのヴィンテージは55 HEAVEN(ヴィンテージレーサーが集う神奈川県平塚市のショップ)で乗っているひとが多いので、そこで一緒に練習させてもらうことが増えました。あとは練習量をめちゃくちゃ増やしましたね。木金土はだいたいひとりとか少人数で練習して、日曜日はみんな集まるのでハードに練習して。乗れる日はなるべく乗るようにしていました。みんなと走ることで自分の実力不足を実感することもありましたね。あと練習後はだいたいみんなで食事に行くんですけど、話しが盛りあがり過ぎていつも閉店近くまで喋って、僕はそこからさらに芳賀毅さん(日本有数の実力派ベテランライダー)の助手席に座って、その日の練習の反省点を教えてもらったり。それをジェットスキーノートにメモして、次の練習に活かしていました。

HWSM そしてシリーズ最終戦のJJSA蒲郡大会では見事優勝されました。

アレックス(子) 1年間の集大成的なレースだったので、ここで勝てなきゃ1年間何やっていたんだってことになっちゃうからすごいピリピリしていて。それで父ともケンカしてしまって、最後のレースだから見に来てくれる予定だったんですけど「もう見にいかない」ってなっちゃって。それでレースはなんとか優勝できて、休学期間も終わり大学に戻ることになったんですけど、帰る前日に村尾さんから「明日で出発だろ、気をつけて。今まで黙ってたけど、蒲郡のレースは親父さん見に来てたぞ。お前はたまに親父さんのこと悪く言うけど、たまには親孝行しろよ」って感じで連絡がきてビックリしました。不器用な親子なんです(笑)。

わずか1年で目覚ましい成長を遂げたアレックス選手

HWSM 日本での最終戦のあと、アメリカで開催された世界大会『ワールドファイナル』にも出場されました。清潤さんの現役時代でも出場は叶わなかったそうですが。

清潤(父) そうですね。2回ほど観戦に行かせていただいたんですけど、僕にとってワールドファイナルは夢のまた夢みたいな舞台だったんです。そこに息子が連れて行ってもらえるかもしれないとなって、村尾さんには本当に感謝でした。ただその時点ではまさか息子が出場するなんて思っていなかったですけど。

アレックス(子) 村尾さんがアメリカの550を見に行きたいから、英語が喋れるなら付いてこいって誘ってくれて。通訳してもらうから宿とメシ代はいらねえよみたいな(笑)。

清潤(父) こっちも息子が行くことになって、ラリーに「アレックスが行くから世話をお願いします」と連絡させてもらいました。

アレックス(子) ちょうど蒲郡大会で優勝したあとでホッとしていたというか、気持ち的にもリラックスしていたタイミングだったんですよ。だからワールドファイナルでレースに出るなんてまったく考えていなかったんですけど、行く前に芳賀さんから「現地に行ったら何があるかわからないから、とりあえずウェットスーツは一式持っていけ」と言われて。アメリカンドリームがあるかもしれないぞ、みたいな(笑)。それで言われたとおりスーツケースに一式入れて出発したんですけど、いざ現地に付いたらマーク・ゴメス(世界有数のトップフリースタイラー)がフリースタイルに集中したいからヴィンテージのレースは出ないって話しになって。

HWSM それで代役としてアレックス選手が?

アレックス(子) 最初は村尾さんに「出ない?」って話しがきたんですけど、「面倒くさいからお前が代わりに出ろ」って言われて(笑)。村尾さんとしては僕に経験させてあげようってことだったんだと思いますけど、そんな感じで僕が出ることになって。結果はアレでしたけど、貴重な経験をさせてもらいました。

HWSM それで1年間のレース活動は終了して大学に復学しましたが、現在また休学されて2024年7月のJJSA千里浜大会にスポット参戦されましたね。

アレックス(子) 今はインターンで平日は普通に働いていて、千里浜は個人的に思い入れもあったので出させてもらいました。ぶっつけ本番だし帰国してすぐだったので大変でしたけど。

HWSM これでレース活動はいったんお休みに?

アレックス(子) そうですね。自分でお金を稼げるようになったら村尾さんにメカニックをお願いして、5年以内にはワールドファイナルにリベンジしたいとは思っています。

清潤(父) まずは大学を卒業してからだろ(笑)。

アレックス(子) もちろんまずは卒業ですけど(笑)。仲間のみんなや父とまた一緒に乗れたらいいなと思っています。

親子のホンネトーク

ここからは親子別々にインタビュー!

直接言いづらいことや親子ならではの悩みなどをホンネで語ってもらい、お互いへのメッセージを書いてもらいました。


親から子へ

HWSM お子さんが水上バイクに乗っている姿を見てどのような心境ですか?

清潤(父) とにかくうれしいですね、すごく。

HWSM そうなると思っていましたか?

清潤(父) 思っていなかったです。まさか水上バイクをやってくれるとは。「くれる」って言葉がでてくるってことは、どこかで期待していた部分があったんでしょうね。自分はもう水上バイクのレースはやっていないし、ブヨブヨジェットスキーヤーなので(笑)、僕から誘ったり勧めることはなかったですけど巡り合わせなんですかね。周りの先輩方にも恵まれて、水上バイクに打ち込んでいる姿を見ると感謝しかないんですよ。

HWSM お子さんが水上バイクに乗るようになって、親子の関係に変化はありましたか?

清潤(父) それはありましたね。彼がレースを始めたことで、レースの駆け引きとか、ライン取りとか、スロットルワークとか、レーサーとしての話題がもの凄いでてくるようになりました。スポーツをやるうえでトライ&エラーは重要なことで、それを語り合える仲間になれたことがすごいうれしかったですね。

HWSM アレックスくんからもそのような話題が増えましたか?

清潤(父) もの凄かったですよ(笑)。おかしくなったんじゃないかっていうぐらいノートをとっていたので、それについて色々聞いてきたり。ひとつのことに集中すると他がまったく手に付かなくなるタイプなので。

HWSM 心配な部分はありませんか?

清潤(父) 僕の現役時代に仲間がレースで亡くなったりしたこともありましたから、その悪夢のような出来事は今でも頭に残っています。自分が息子のレースのサポーターとして会場に行けるわけでもないし、心配する部分ももちろんありますけど、それよりも水上バイクのレースに真剣に打ち込んでくれたことがうれしかったですね。

HWSM お子さんとしてではなく、後輩ライダーとしてアドバイスすることはありますか?

清潤(父) 僕たちが現役のころは、自分のことだけではなくみんなが水上バイク業界全体のことを考えていたような気がします。もっと盛り上げようとか、メディアにこう出ようとか、安全面はこうしようとか。そういう広い視野を持ってみてもいいかもしれないですね。

HWSM 今はいったん水上バイクをお休みして、しばらくはインターンと学業に励むことになりそうですが、できることならいつまでも水上バイクに乗ってほしいですか?

清潤(父) そうですね、そう思います。水上バイクに乗ることで多くの学びがありますから。僕がレースでプロになったとき、父親から「お前はたかがジェットのプロか。俺は人間のプロだ。悔しかったら人間のプロになってみろ」って言われたんです。お坊さんは人間のプロだぞと。だから息子にも水上バイクを通じて様々なことを学んで、人間のプロを目指してほしいですね。

子から親へ

HWSM ご自身も水上バイクに乗るようになって、お父さんとの関係性に変化はありましたか?

アレックス(子 元々仲が良いので会話が増えたとかはそこまでないかもしれませんけど、水上バイクの話題がでるようになりました。でも僕がそういう話しをすると、なぜか父は無視するんですよ(笑)。僕の熱量がスゴすぎて引いてるのかもしれないですけど。ただ最初に前田さんを通じて村尾さんを紹介してくれたのも父ですし、マシンのお金とかガソリンのお金もだしてもらってますし、父がいなかったら水上バイクを始められなかったです。お金のことってみんな話したがらないですけど、練習するにもガソリン代が掛かりますからね。千里浜で負けてさらに練習量を増やせたのも父のおかげですし、本当に感謝しています。

HWSM お互い忙しそうなので一緒に乗る機会はほとんどありませんでしたか?

アレックス(子) 1回だけ父と前田さんと一緒に3人で乗ったことがありますね。ただうちの父はすぐに疲れちゃうので(笑)。僕が乗っているのを見ながらアドバイスをくれたりしていました。

HWSM お父さんが乗っている姿を見てどう思いましたか?

アレックス(子) 僕はレースしかできないですけど、父はフリースタイルもできるので、やっぱりすごいなと。

HWSM お父さんにはいつまでも水上バイクに乗っていてほしい?

アレックス(子) そうですね、健康にもいいですし。親子の会話も仏教のこととかがあるんで難しい話しが多かったりするんですよ。1回「早く日本に帰ってこい」って言われて、これはまた難しい話しをされるなと思ったので「(いつも乗っているジェットフィールド湘南がある)馬入集合、馬入解散で」ってことで。楽しく水上バイクに乗って、それで解散みたいな(笑)。そういうこともできるから、父にはいつまでも水上バイクに乗っていてほしいですね。

HWSM ご自身もいつかお父さんと同じ道を歩むかもしれませんが、そうなったとしても水上バイクは続けていきたいですか?

アレックス(子) 自分自身が楽しく乗ることも大事なんですけど、それよりも水上バイクを通じて巡り会えた仲間を大切にしていきたいですね。あと、以前にウクライナの難民の人たちがお寺に来て、その人たちの気持ちを和らげてあげるために父が水上バイクに乗せてあげたんですよ。そういう社会的に苦労されているひとたちのためにもなるノリモノなので、自分もそういうことができるように続けていきたいとは思っています。

HWSM 今はお仕事を頑張って、次は自分が稼いだお金で水上バイクのレースですね。

アレックス(子) 村尾さんは早く休みたいって言ってるんですけど、僕のメカニックをもう一回やってもらわないといけないので。目標はワールドファイナルで優勝ですね。実は一度プロスキーにも興味が沸いて、村尾さんにメカニックをやってもらえないか相談したことがあるんですけど「興味ないからムリ」ってバッサリ断られて。何回か聞いてみたんですけど「メカニックは紹介してやるから頑張れ。俺はやらないから」って言われちゃって。でも550だったら見てくれるらしいので、だから僕がもし復帰したら、ヴィンテージクラスで村尾さんと一緒に世界チャンピオンを目指したいですね。


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