【インタビュー前編】二刀流レーサー小原聡将の『現在地』|ボートレース初優勝までの道のりとジェットスポーツ悲願の世界チャンピオンに向けて

水上バイクとボートレースの二足の草鞋で活躍する小原聡将選手。

2025年8月にはボートレースで念願の初優勝を手にしましたが、そこまでの道のりは平坦ではありませんでした。

ボートレーサーとしての6年間を振り返りつつ、世界の最前線で戦うジェットスポーツにもフォーカスしながら二刀流レーサーの現在地に前後編で迫ります。

前編はボートレースデビューから初優勝直前までの『ボートレーサー小原聡将』について。


順婦満帆なボートレースキャリア

――デビューからこれまでの戦績を振り返りながら初優勝までの道のりを追っていきたいのですが、2019年に養成所を卒業してから最初の3期(半年で1期)は順風満帆でした。

1期目はB1昇格を目標にしていて、それをギリギリで達成できましたし、2期目は勝率3点台と初勝利、3期目は勝率4点台と準優勝戦という目標も順調にクリアできました。

――2期目で初勝利は、ボートレーサーのなかでは早いのでしょうか?

もちろんデビュー期で水神祭(初勝利などを祝うボートレースならではの行事)をする選手もいますけど、どちらかといえば少数派です。当時は同期が28人いたなかで、2期目までに水神祭をしたひとは自分を含めて4~5人ぐらいだったと思うので。あまり早いとか遅いとかを意識したことはなかったですけど、今考えれば早かったですね。

――ちなみに余談ですが、今は同期の選手も減ってしまったのでしょうか?

今は23人か24人だったと思います。ボートレースには「4期通算」と呼ばれるルールがあって、4期(2年間)の平均勝率が3.8を下回ると引退勧告の対象になります。選手の最大人数が1630人と決まっていて、それを超えると勝率の低い対象者から強制的に引退となる制度です。

――厳しい世界ですね。

それ以外にフライングや出遅れなどの事故率が高くても引退勧告がされます。常に数字を意識して、数字に追われている世界ですね。シリーズ中も「予選ボーダー」と呼ばれる平均6点を意識して走るんですけど、3着の着順点が6点なんですよ。自分の得点がその時点で6.2点だったら、「3着でも下がっちゃうから2着にはならないと」とか、「4着になったら2着以上で挽回しないと」とか、毎レース数字を考えて走るので、プレッシャーに押しつぶされて辞めてしまうひともいますね。

突如訪れた暗雲

――そんな厳しい世界で着実にステップアップしていたわけですが、4期から6期までの1年半は苦難の連続でした。

まずは4期目の序盤でフライングを2回やらかして、90日の長期休暇をいただきました……。1期内でフライングを1回すると30日、2回で60日、3回で90日のお休みになるんですけど、自分は連続で2回フライングした
のでまとめて90日の斡旋(出走)停止で。ボートレーサーは走らないと収入がないので、そのあいだは事実上の無職でした……。当時はB1で金銭的に余裕もなかったので、そういう意味でもかなりキツかったです。

――4期目はその影響もあり勝率が5点近くありながらB2まで降格しました。

1期間で事故率が0.7以上あると、どんな選手でも強制的にB2まで落とされてしまうんです。自分はフライング以外にも転覆などで事故点が溜まっていたので、問答無用で降格となりました。

――その後も事故率には苦労したようですが、5期目の2022年には自身初の優勝戦を経験されました。

フライングの影響で思い切ったレースができない状況だったんですけど、江戸川の走り方がわかってきたことが初優出(優勝戦への進出)に繋がりました。ボートレーサーはみんな言うんですけど、江戸川は特殊なんです。他のボートレース場には防風ネットがあって、10mの風が吹いてもレース水面はもっと低い風速になるんですけど、ボートレース江戸川のレース水面は川をそのまま利用しているから防風ネットもありません。10mの風が吹けばそのまま水面に影響がでますし、それが潮の流れとぶつかってすごい波が立ったり。スタートも道中もすごく難しいレース場なんですけど、自分にとってはそれが好都合というか。水上バイクは波のなかで走るのが当たり前でしたから、唯一ジェットスポーツの経験が江戸川では活きるんですよね。スタートもわりと自信を持っていけるレース場です。あとはこの年に結婚したこともあって、もっと頑張らなきゃいけないっていうタイミングでもあったので。

――無事に1期でB1に復帰して、2022年7月には長女の縁(ゆくり)ちゃんも生まれました。さらに頑張る必要がありましたが。

生まれた翌月にケガをして、娘を抱っこもできなくなっちゃいました……。

――レース中のケガでした。

完全に自分のミスなんですけど、ターンマークの頂点でキャビって失速してしまって。後続艇の選手は避けようとしてくれたんですけど、ボートレースのボートは水上バイクのように小回りが効くノリモノではありません。そのまま避けきれず、船首が自分の真横から突き刺さるような形で直撃してしまって。結果的には腕を骨折していて、そこから2か月間の欠場になりました。

――ボートレースでそれぐらい大きなケガはよくあることですか?

骨折とかのケガで1か月とか2か月休むひとは、1期に1人以上はいるイメージですね。自分と同じようにターンで失速したり転覆して衝突というケースが多いと思います。

――水上バイクのレースで大きなケガは?

ほとんどないんですよ。ボートレースよりよっぽど長くやっているんですけど(ジェットスポーツ歴19年)、一度だけ大荒れのワールドファイナル(世界大会)で後続艇に突っ込まれて救急車で運ばれたことがあるぐらいで。骨が折れたことは一度もありません。水上バイクは危ないと思った瞬間にハンドルを切れば、だいたい避けられますからね。ボートレースではそのタイミングだとすでに手遅れなんです。

――ちなみにフライングでの欠場中は収入がなくなるとのことでしたが、ケガの場合は?

レース中の事故でケガをした場合は共済制度というのがあって、休んでいるあいだも共済金がもらえます。毎レース自動的に掛け金が天引きされていて、万が一のときはそこから保障してもらえます。もちろんレースで走ったほうが稼げるので、みんな一刻も早く治して復帰したいと思っていますけどね。

念願のA2に昇格

――4期と5期は事故率に悩まされ、さらに長期離脱と苦難続きでしたが、6期が終わるころには勝率を5点台に乗せて念願のA2昇格を果たしました。急上昇の理由は?

ケガをする前までは「このターンいけるかな?」というちょっと無理な曲がり方をすることもあって、その結果転覆したり失速することがあったんです。でも「あれじゃダメなんだ」ということを身をもって経験したので、単純に走り方を変えたのも理由のひとつかもしれません。ケガをしない、ひとに迷惑を掛けない走り方というか。

――具体的には?

もちろん状況次第ではあるんですけど、スピードを乗せて外を回るのが一番安全なので、水面を広く使うように意識して走るようになりました。水上バイクはブイに向かって最短距離で走っても曲がれるノリモノなので、その感覚が体に染みついていたみたいで。ボートでそれをやるとキャビって失速してしまうので、そこの意識が大きく変わりました。もっとボートの乗り方をしなきゃいけないって。

――ケガの功名でしたね。

あとは江戸川で優出できたときに「プロペラが合っているときは何をやってもだいたい上手くいく」というのを実感できたのも大きかったです。ここでの成功体験がひとつの指標になったので、その後のプロペラやモーター(エンジン)を調整する際の目標が明確になりました。それまでは「どうしたらよくなるんだろう」と手探りでやっていたので。

――フライングも4期目の90日休み以降は目に見えて減りました。

かなり気をつけていました。フライングはしてはいけないものだと学んだので。あとは転覆で事故点が加算されていたこともあって、1回でもフライングしたら即B2に降格という状況が続いていたので……。転覆も走り方やプロペラの調整で少しずつ減ってきましたし、すべては経験の積み重ねですね。

自身初のシリーズリーダーで
初優勝が目前に……

――そしてA2として迎えた7期目の2023年には、自身初の予選トップで優出。1号艇からの出走で、初優勝が目前でしたが。

転覆したヤツですね。これまでの人生で悔しいことってたくさんありましたけど、そのなかでもトップクラスの出来事です。シリーズリーダーでの優勝戦なんて、勝てる確率の方が圧倒的に高いので。今思い返しても悔しくて悔しくて……。結局はプロペラが合っていなかったんです。シリーズリーダーで優勝戦に進むのって、本来であればすべてが仕上がっているはずなんですよ。もちろん(荒れがちな)江戸川ですし、運の要素もありますけど、基本的にはモーターやプロペラの調整が完成されているから予選でもトップが取れるわけじゃないですか。

――すべてが整った状態であったと。

だから失敗するわけないと思っていたんですけど、あの転覆はプロペラが合っていれば起こらないことでした。トップスタートを切って1周1マークもこれは逃げた!! というターンだったから、無理をしたわけでも、攻めすぎたわけでもなかったんです。それまでの予選とまったく同じ走り方をしたんですけど……。今でもその光景は鮮明に覚えています。終わってから1週間ぐらいは悔しくて眠れなかったし、目をつむるたびに思い出していました。みんなは「あれは優勝だったよ」って言ってくれるんですけど、それもなんだか恥ずかしくて。より一層、早く優勝しなきゃっていう気持ちが強くなりました。

――惜しくも初優勝は逃しましたが、シリーズリーダーという経験は大きかったのでは。

自分にとって大きな自信になりましたね。その前の初優出がまぐれではなかったという証明にもなりましたし、江戸川はこういう感じでいけば優勝戦に乗れるんだっていうのも改めて確認できました。

――その後もちょっとしたミスでB1に降格することはありましたが、10期目の2024年7月には通算100勝を達成されました。100回のなかでもっとも記憶に残っている1着を教えてください。

優勝戦の前に準優勝戦があって、そこで1着を取ったら優勝戦の1号艇に乗れるんですけど、「ここで1着が取れたらポールポジション」っていう場面ではかなりのプレッシャーもあったんです。だから絶対に失敗できないっていう重圧のなかで1着が取れて、ポールポジションが確定した準優勝戦のレースが100回取った1着のなかでも1番ですね。初勝利の水神祭もすごくうれしかったし記憶に残っていますけど、準優ほどのプレッシャーを感じることはなかったですから。

――水上バイクのレースで緊張することは?

場数を踏むごとに緊張することもなくなっていったんですけど、ジュニアの最初の方のレースとかは緊張しましたね。あとは将太郎くん(國分将太郎選手)と世界チャンピオンを掛けて走った2016年のワールドファイナルはものすごく緊張しました。特にMOTO 2は将太郎くんに勝てば世界チャンピオンだったので、スタートから緊張感がありましたね。結局は勝てなかったんですけど。

――2025年3月にはGⅡでの初勝利もあり、11期目は自身最高勝率を更新して目標とするA1が目前に迫ってきました。そして6月には絶好のリベンジの機会が。

江戸川で2度目のシリーズリーダーでの優出ですね。自分にとって4度目の優出で、そのすべてが江戸川だったので「次こそは……!!」という思いでした。前回と同じくトップスタートで……、やられちゃいました。あの時の2号艇が中辻選手という伸びの調整がものすごく上手な選手だったんですけど、「このひとにやられなければ勝てる」という思いが強すぎましたね。意識しすぎました。

――掴みかけていた初優勝がまたしてもこぼれ落ちていきました。

前回の優勝戦での転覆があっただけに色々なひとが応援してくれましたし、自分自身も「これで勝てなかったらどうしよう……」っていう思いもあって。逆に前回は転覆だったからゴールできれば成長か、という考えも浮かんできたり。スタート前は頭のなかが色々な考えでグチャグチャになっていましたね。


>>後編ではボートレース初優勝の舞台裏や、『水上バイクレーサー小原聡将』のイマとミライに迫ります!

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